劇団芝居屋的演技概論
その1


大袈裟な身振り
わざとらしい感情表現
大声
異様に明瞭な滑舌
方向のない言葉
説教臭さ。
演劇に関心を持たない
と答えた人が上げる演劇を
敬遠する理由である。
この理由は
これまで演劇を
一度も見たことのない人でも共通している。
これらの事はどこから出て来たのだろう。

 私を例に考えてみよう。
わたしは北海道の釧路という所に生まれ育った。
母親が日本舞踊の師匠という事もあって
芸事には幼い頃から
関心を持っていた。
だから映画(映像)との付き合いは早い。
小学生の低学年の時には
近所の同級生の親が経営する映画館に
裏口から忍び込み、
スクリーンに展開される
様々な物語に
客席の闇から胸躍らせて
見入っていたことを
今でも思い出す。
 わたしが演劇(舞台)と出会ったのは
小学校主催の巡回演劇である

その内容は
遠い過去の彼方に
置き忘れてきたが、
あまり面白くなかった事は確かであった。
その面白くなさは
何であったか考えると、
その頃熱中していた
映像との違和がそう感じさせたと思うのだ。
映像における
登場人物の自然な演技。
同じ見世物として
わたしは舞台のそれと
映画を意識的に比べていた。
その時感じた
演劇(舞台)の違和感
それはわざとらしさであり
大袈裟さであった。
幼かったわたしにも
それは
はっきりとわかったのである


 告白しよう。
わたしはそれから
私自身が演劇に身を投ずるまでの長い間、
演劇(舞台)を観る事を避けていた。
だが幾度かは
いわゆる大手劇団の公演を観る機会があった。
そこでの感想の
大部分を占めているものは幼い時に感じた
あの違和感であった。
その経験はわたしを
ますます演劇から遠ざけた。

 そんなわたしが
何故演劇の世界に足を踏み入れたかは
何時か述べるとして、
わたしは二十歳を過ぎて演技学校の門を叩いた。

その動機は
映像世界(スターになれると信じていた)への登竜門としての意識であり、
演劇への関心ではなかったがそこで教える
先生方の進めもあり

わたしは
再び演劇を観始めた。
その時感じたものは
相変わらずの違和感であった

わたしには
ここで解明しなければならない命題がはっきりとあった。
なぜ演劇(舞台)における役者の演技は
あれほど大袈裟で、
わざとらしく、
大きな声(話す相手が隣に居ても)で、
異様なほどの明瞭さを持って
方向を持たない言葉を観客に投げかけるのか。

わたしの問い掛けに
先生は「距離を考えなさい」と一言言った。

 なるほど
あの不自然さの原因は
舞台と客席との
距離にあったのか。
それに加え
更に先生は
ギリシャ悲劇における
円形舞台を例に出し
すり鉢状の
観客席の上まで演じている内容を伝える為には、
それなりの大きなしぐさや
大きな声が必要なのだと
強調した。

なるほどそういうものなのかとわたしは納得し、
演劇を見る度に感じる違和感をないものにしょうと努めた

その当時の
演劇界の主流は
新劇と呼ばれる
俳優座・民芸・文学座などの劇団であった。
その先生も
その系列の人だった。
映像から舞台に
興味の対象が移ってしばらくした頃、

素朴に
待てよと思ってしまったのだ

これが禁断の地への踏み出した一歩目だった。
わたしの違和感は
その頃最高潮に達していた
もう距離などという誤魔化しで言いくるめる事が出来ない程大きく膨らんでいた。

 一万人の観客を前に演じなければならない
ギリシャの円形劇場でならわかる。
それは
そうした方法を取らなければ
観客には届かない現実が
編み出した
円形劇場ならではのものだ。

それを日本の舞台に持ってくるのは安易だし
おかしくはないだろうか。
日本には
時代と共に栄えた
演劇があった。
それは
今や古典芸能と呼ばれる
能や狂言・歌舞伎といったものだ。
それらのものは
日本に階級が歴然とあった時代に創り上げられた
各階級の見世物であったが、
階級制度の崩壊と共に
その力を失い、
主義主張を庶民に
しらしめ様とする
新劇へと主流の大勢は
傾いていった。
その時期は長く続いた、
そうわたしが演劇へと足を踏み入れるまでは。
(本当にそう考えていられたのだから若いって恐ろしい)

 確かに主義主張を
庶民に啓蒙するためには、
啓蒙される事を望まなかったわたしの感じた大袈裟な身振り、
わざとらしい感情表現、
大声、異様に明瞭な滑舌、
方向のない言葉、
説教臭さが必要だったのだろう。
だがおかしいと思わないのだろうか。
それがどの位面白くないものか
誰も気付いてはいないのだろうか。

もしかしたら
そう思っているのは
自分だけなのかもしれな
いなどと
孤高の天才を気取っていた頃
一斉に反新劇運動が起こり

主義主張の道具としての演劇から、
表現芸術としての
演劇の復興を目指す大きなうねりが始まった。
俗に小劇場運動やアンダーグラウンド運動などと呼ばれたものである。
硬直した
大劇場崇拝思想を
変えようという運動である。平たく言えば、

今までの
つまらない演劇表現は
大きな劇場を前提にしてあるからだ

もっと劇的なものは
どんな所からでも生まれる可能性があると言うわけである

おかしいと思っていた人間は大勢いたのだ。
勿論わたしもそのうねりの中に身を投じ、
新たな活動の場を劇団活動へと移していった。
それからの
わたしの演劇活動は
又の機会の話にするが、

その後の演劇界は
幾つか大きな波があった。
演劇に
劇的なものを求める時期から

演劇は楽しさを求めた時期、そして演劇に笑いを求める
現在へと至る。

それらの時代の
真っ只中に居たわたしは
何をしていたかと言えば、
どんな芝居を見ても感じる
あの違和感を
なだめすかしながら

いつか来る
新たなる表現の出現を
指を咥えて待っていたのだからお笑い草である

しかしながら
時間はそんなわたしに
関係なく過ぎ去り、
この大きな波の生じた年月によって
演劇は大きな変化を
遂げた・・・のだろうか。

 確かに今日ほど
舞台芸術が多彩さを極めた事はなかっただろう、
演出的な側面に於いては。
そう
今はあらゆる演劇がある。

劇的なものを求める芝居。
笑いを求める芝居。
スペクタクルを求める芝居。エンターティメントを求める芝居。
静かな芝居

 だが新たな言葉で
舞台創りに取り組んでも、
その言葉は
演出や美術などの
外側止まりで役者には届かなかったようだ。
相変わらず
舞台では程度の差こそあれ
役者は客席に向かい、
台詞術とやらの衣を被った
硬直した言葉を吐いていた。
どこの舞台を観ても
わたしの違和感を取り除いてくれるものには
出逢わなかった。
芝居の創りが
優れていればいるほど
その違和感は増していった。

 ここに至って
わたしはわたしの長い間感じ続けていた
舞台表現の違和感の原因が

これまで演劇界が培ってきた暗黙の了解としてある
階級制度にあると
気が付いたのだ。

それは脚本、演出、役者の順の縦構造であった。
舞台とは
作家によって選抜された
文学的なテーマを
演出家が役者を使っての
具現化することである。
この事に
疑問を持ち得なかった事が
わたしが感じる
違和感を生み出し続けていた原因に他ならないのである。

 噛み砕いて言えば、
本を書く人が一番えらくて、
書けないが
書かれてあることを
具体化できる演出家が
次にえらくて、
演出家の
いわれるままに使われるのが役者だということだ。
作家の言いたい事を
観客に伝達するのが
演出家の役目であり、

その伝達を担うのが
役者の務めである
という構造ある。

この構造が
なぜわたしが感じ続けている違和感を生み出すのか。
これまでの舞台造りは、
作家によって生み出された
作品のテーマ
(まだ文字列であり、抽象的存在)を人間の営みの中(演技)で観客に手渡す事(演出)で成り立って来た。
ここで重要なのはテーマであり、テーマをより鮮明にする演出である。
役者に求められるのはテーマを観客に手渡す為の役割である。
その役割の中にテーマをより明確に伝える為にわたしの言う所の違和感のある、
大袈裟な身振り・わざとらしい感情表現・異様に明瞭な滑舌・大声が姿を現すのだ。

 わたしはこの違和感から逃れる為に劇団芝居屋を立ち上げ「覗かれる人生」劇をはじめたのである。
というよりわたし自身がおかしいと思う事柄を順次削除していったら「覗かれる人生」劇が残ったのかもしれない。
わたしにとって役者が役割を消化するだけの演劇は面白くないのだ。
面白い舞台を創る為には作家・演出・役者の関係が縦ではなく、横の同等関係でなければならない。
その為には自立した役者である事が必要なのだ。しからば自立した役者とはどの様なことであろうか。
役者における自立とは自分自身の表現技術を発明する事に他ならない。

 演劇は虚構世界である。創りものである。どんな芝居を思考した所で、
その元になる方向を示す台本はなくてはならない。
方向があるという事はそこを目指す為の役割が生じるという事である。
しかし役者には役割を利用して演じている人(個人)を、又、
そこに生きる人間(関係)を深め膨らませる事はできる筈だ。
わたしにとって面白い舞台とは役者が、自分の人生を背景に持ち、
今現在の時間を生きる人間として登場する舞台である。
そこで生きる人間からはわたしの感じた違和感は消えている筈である。



                                                  劇団芝居屋主催 増田再起

劇団芝居屋的演技概論
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